2018-03-17

神輿を担ぐだけが祭りじゃない。その先の日常を見つめる店ー三ツ矢酒店【PR】

西荻窪の駅からごく近くの神明通り沿い、大正15年創業の『三ツ矢酒店』はあります。今や全国各地の蔵元や日本酒ファンがあこがれる、地酒の専門店です。ここに至るまでのお店の変遷と、戦後から今も変化を続けている西荻窪の街の様子、長年見つめ続けてきたからこそ溢れ出てくる熱い想いの数々を、専務の鴨志田勝義さんにたっぷりと伺いました。西荻が経てきた長い時間と、西荻のこれからについて、深く考えるきっかけを与えられたような気がします。

取材:小林真梨子、前澤夏子
構成・文:前澤夏子
撮影:坂田誠


第二次世界大戦を経て…西荻の暮らしと風景

―西荻の戦後の様子について、小さい時の思い出など、何か印象に残っていることはありますか?

私は昭和17年生まれだけど、その頃は、まだこの辺も、焼け跡というか…あまりちゃんとしていなかった。空襲もあった。音は覚えていないけど、記憶にはある。寝てたら警報が鳴ったと起こされて、逃げていった覚えがあるよ。今、西荻ラバーズフェスをやってる場所(桃井原っぱ公園)も、昔は中島飛行機っていう飛行場があったから、煙突めがけて焼夷弾がけっこう落とされたんだよ。その頃、西荻の街中には風呂屋さんが5、6軒あって。飛行場の煙突と風呂屋さんの煙突を間違えて、そこめがけて焼夷弾を落としたら、すぐ横の高井戸第四小学校に落ちちゃった、という話もあったたね。

それから、昭和23、4年頃からお店がどんどん増えたよね。バラック建ての闇市もあったし。戦時中は商売できる品物が入ってこなくて、戦後になってさらに厳しくなって…配給制度があった。切符が各家庭に配られてさ。その切符を何枚でお酒、何枚で塩、砂糖という風に交換する。みんなその切符を持ってうちの店にも交換しに来たんだよ。もちろん、品物と一緒にお金も払うんだけどね。そんな時代もあったな。そういう乏しい時代が終わったら色んな商売が自由になったから、増え出したよね。傘屋、豆腐屋、米屋、酒屋、呉服屋、洋品屋…「いかけ屋」なんて知ってる?戦後に金物屋なんて少ないからさ、やかんや鍋なんかに穴が開くとそれを修理するの。「いかけ屋」の「い」は鋳物の「鋳」ね。アルミのね、こんなのでこうやって…ふさぐんだよね。まぁ色んな商売があったよな。

―壊れても直して使うということが当たり前だったんですね。

そうそう。あと戦後間もなくは、交換所っていうのもあったよ。昔はメリケン粉といったけど、今は小麦粉。配給されたメリケン粉を何㎏持っていくとコッペパンいくつ、もしくは、うどん玉いくつ、とかさ、交換してくれるの。普通の家庭ではそんなのもらったって、すいとんくらいしか作れないからさ。たまには変わったものを食べたいと思ったら交換できるわけ。

誰もが腹を空かせていた、子どもたちの戦後

西荻の街っていうのはね、戦後の前の話だけど、親父たちに聞くとね、軍人さん、下町の商人さんたちが、この地域に別荘を建てる人が多かった。中央線から1本で、日本橋とか都心から来れるからね。それからそのうち、工場や銀行の社宅が増えて、どんどん西荻に住む人が増えてきたんだよな。

子供なんかはやたら多かったよね。小学校が6、7クラスあって、最低でも1クラス5、60人はいたんじゃない?遊ぶ場所は、公園なんてないから、原っぱだよね。凧揚げもできたもん。善福寺と久我山と、川が流れてたから、夏は水遊び。暖かい季節になったら、そこでザリガニ採りに行ったりさ。ザリガニってさ、釣る時にスルメに糸付けて垂らしておくとくっついてくるんだよね。当時、食い物ないからさ、そのスルメを食っちゃうんだよな。途中の畑にトマトが植わっていたら、もいで食っちゃったりとか。畑がいっぱいあったから。昔はみんな、麦畑で麦を作ってた。田んぼはなかったね、この辺は。麦畑と野菜畑。

あとは、学校給食がちょうどはじまった頃だよな。戦後アメリカから来た、脱脂粉乳。あれがまずくてさ。飲んだフリして捨てちゃうんだよな(笑)。あと、今は鯨の肉なんて高級品だけど、あれも硬くて臭くてね。今思うと、甘いものがなかったよね。せいぜいあってカルメ焼き。知ってる?カルメ焼きって。ザラメをさ、スプーンみたいなので水と混ぜて、そこに重曹を混ぜたらバーッと膨らむんだよ。他に甘いものが全然なかったから、俺と友だちは虫歯もなかったもん。小学校時代っていうのは、そういう窮屈な思いがあったよね。みんな腹減らしてね。うーん、食い物には飢えてた。だから未だに俺なんて食いしん坊だもん。食うことばっかり考えてる(笑)


戦中戦後の西荻の様子を噛みしめるようにお話くださった、三ツ矢酒店の専務の鴨志田勝義さん

酒屋はかつて「何でも屋」だった

―今でこそ東京はどこもかしこも都会という感じすが、当時の西荻はもっと「田舎」だったんですね。でも空襲もあったりして…

田舎だね、本当に田舎。さっき言ったように中島飛行機があったから、けっこう爆撃もあったりして、被害に遭って亡くなった方もけっこういるね。久我山なんかに遊びに行くと、爆発後の焼夷弾の残りがよく置いてあったし、うちにも、防空壕があったよ。実際は防空壕には入らずに逃げちゃったらしいけど。防空壕を掘る職人さんもいたよね。この辺は関東ローム層で赤土がしっかりした土地だから、手掘りでもけっこうしっかりした防空壕ができたんだよね。階段もあって。夏はひんやりよく冷えててね。

―戦後はその防空壕はどうしたんですか?

貯蔵庫にしてた。ビールとかサイダーとか入れておくとよく冷えてね。あとは氷が冷蔵庫代わり。氷屋さんもあったね。「一貫目」売りだよな。いくらだったか忘れちゃったけど。

―昔ながらの単位ですね。一貫目はどのくらいの量なんですか?

一貫目は3.75㎏。味噌なんかは「匁」。百匁売り。

―日本酒は今も昔も変わらず、「一升、二升」ですね。

そうだね。面白いのが、お酒は一升瓶で売ったのに、大豆とか胡麻とか、食用油の量り売りはdl(デシリットル)だったんだよね、なんでかねぇ。うちもいろんなもの売ったから。薪、炭、石炭、油、味噌、醤油、にぼし、暮れになったら数の子も売ったよ。日用品、もう何でも屋だよ!昔の酒屋は(笑)。

―サザエさんに出てくる『三河屋さん』のような。

そうそうそう。卵も売ったし、変わったところでは、かんぴょうとかね。店がそんなになかったから、何でも商いになったんだよね。それで今日があるんだよ。時流に乗ったわけですよ、その当時はその時流にね。もちろん、スーパーなんてないしさ。


「酒屋」が何でも売っていた時代もあった。

呉服屋、米屋、酒屋。「旦那衆」のいる街

―スーパーができはじめたのはいつ頃なんでしょう?

昭和30年代くらいじゃないかなぁ。それまではちっちゃなお店が何軒か集まってさ、市場みたいな形式のお店はあったよね。例えば、洋品屋さん、肉屋さん、魚屋さん、八百屋さんなんかが一緒になって同じ場所でね。

―そこにあった西荻デパートのような?

そうそう、あそこも古かったね。ああいう形態の店はけっこう人が集まったんだよ。戦後、かなり落ち着いてからだよね、スーパーが出てきたのは。モノが豊富になってきて、安く売るっていうのは、戦後かなり経ってからだよ。最初はみんな普通に、ちゃんとした利益を取って売ってたからね。

―安さで競う時代ではなかったんですね。それまでは、モノがない時にいろいろなモノを扱っている酒屋さんは地域にとって貴重な存在ですよね。

そうね、酒屋もけっこうたくさんあったけどね。荻窪支部っていう酒屋の団体があって、最盛期に130~140軒あったけど、今は20軒くらいだよ。みんなダメになっちゃったよな。人口は増えてんだけどね。それが、今の小売り商人を物語ってる気がするよ。昔は、呉服屋、米屋、酒屋なんていうのはさ、「三大旦那衆」でもってさ、もう夕方5時頃になって暗くなるとみんな1杯ひっかけにいっちゃったんだから(笑) そのくらいゆとりがあったんだよ。勤め人の人は25日(給料日)しかお金が入らないけど、商人ていうのは日銭が入るから。で、かなり儲かったから、夜はさっと遊びに行ける金があったんだよ。

―そうやって経済がまわっていったんですね(笑)。西荻窪駅南口の柳小路は当時からああいう雰囲気だったんですか?

そう、その頃から飲み屋さんなんかも増えはじめてさ。柳小路はあったね。あの辺にね、ちょっといい女の小料理屋さんとかあってさ、みんなそれを目当てに行ったもんだよ(笑)だけどもうそういう時代は終わっちゃったよな。

【NEXT:モノのあふれる時代ー「何でも屋」から「地酒専門店」への転換】

ページ: 1 2 3 4

関連記事